2017年05月25日

復活のイエス様  Tコリント15:1〜11

私たちはイエス様を信じて従う聖徒です。私たちはイエス様の死と復活を信じます。イエス様は栄光の中で褒めたたえられるべき方です。それにもかかわらず、イエス様は罪人である私たちを救うためにこの世に来られ、十字架の上で死んで葬られ、聖書の約束通りよみがえられました。イエス様の復活の信仰。それは今も生きておられるイエス様を信じることです。

   イエス様の死と復活が福音です。
 今日の本文のみことばは福音の内容が何かを語ります。「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと」(15:3〜4)であると語ります。私たちはこの福音のみことばを何度も読み、吟味する必要があります。
 聖書は他の所で、「福音は神の力」。「福音は信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」(ローマ1:16;Tコリント1:18)と語ります。福音は罪人の罪の赦しを受けさせる神の力であり、義のない罪人に神が義と認めてくださる神の力です。また福音は永遠の滅びを受けるべき人に永遠の命を得させてくださる神の力であり、呪われるべき人に神の祝福を受けさせる神の力です。ですから、信じるすべての人に救いを受けさせる神の力であるこの福音より尊いものはありません。福音の核心はキリストの死と復活です。これ
より大切なものはありません。
 福音は聖書の示す通りに、キリストが死なれ、葬られこと、聖書に従って、三日目に復活したことです。ここで、「聖書の示す通り」と「聖書に従って」とはとても大切な意味を持ちます。キリストの死と復活は突発の事ではないことです。聖書の預言が成就されたことです。旧約の聖書にはイエス様の死と復活についての直接的預言のみことばと象徴的事件をたくさん語ります。この通り、旧約聖書のみことばが成就されました。キリストが十字架の上で血潮を流して死なれ、葬られ、復活しました(イザヤ53:4〜6;詩篇22:1〜31;創世記22:1〜14など)。

     イエス様は確実に復活しました。
 イエス・キリストの復活は単純に霊と体が結合して回生したのではありません。聖書は復活のからだは腐ることがないと断言して、栄光の体であると語ります(Tコリント15:42〜44)。このような意味で復活の初穂になりました(15:20)。キリストの復活は父なる神がキリストによる律法の完成を宣言することであり、信じる人々に信仰による義と、最後の復活への希望を象徴する根拠になります。
 イエス様の復活の証拠の例はたくさん挙げることが出来ます。イエス様が残した空の墓は一番有力な証拠の一つです。イエス様が葬られた墓は空っぽでした。神の力により復活されたイエス様が墓に残る理由がありません。
 イエス様の復活のもう一つの有力な証拠はよみがえられたイエス様が大勢の人々に現われたことです。ペテロに現われ、12弟子たちに現われ、500人以上の兄弟たちに同時に現われました(15:5-6)。イエス様の兄弟であるヤコブに現われ、最後にはパウロにも現れました(15:8)。これこそイエス様の復活の確実な証拠です。

    私たちは福音を信じる必要があります。
 福音は聖書の示す通りに、神のひとり子であられるイエス・キリストが私たちの罪のために死なれたこと、葬られたこと、三日目によみがえられたことです。福音は罪人に罪の赦しを与え、神の前で義人として立ち、神の子供になる特権を与え、神の祝福を受けさせる神の力です。だれでもキリストの福音を信じる者に、新しい被造物になって新しい人生を歩ませてくださる神の力です。
  1)私たちは福音をまことに信じる必要があります。
 福音を真に信じることは聖書の示す通りにキリストが成してくださった救いの力を心から信じて、心に受け入れることです。真の信仰は神の恵みを受けて、聖霊の働きによって持つことが出来ます。
  2)私たちは真心から罪を悔い改める必要があります。
よみがえられたイエス様を信じる復活の信仰は必ず悔い改めが伴います。復活したイエス様を信じる人は真心から罪を悔い改めて新しい人になります。新しい被造物です。イエス様を呪いながら否認したペテロも復活なさったイエス様に出会い、悔い改めて大胆にイエス様を証しする証人となります。
復活したイエス様を信じる人は希望がある聖徒の歩みをします。
復活したイエス様を信じる人は清く敬虔に歩む必要があります。
 復活したイエス様を信じる人は主のために働きます。
パウロは主のために他の使徒よりもっと働きました。主のために働くことは決して無駄なことではありません(15:58)。ですから主のために力を尽くして仕える人生を歩みましょう。何よりもイエス様の復活の証人として歩みましょう。
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2017年05月05日

キリストの苦難  Tペテロ4:12〜19

今日から一週間、私たちは私たちを罪から救うために苦しみを受けられた、主の苦難を記念する受難週間を迎えます。ですから、受難の主を通して救いの恵みを受けた聖徒である、私たちも主のために苦難を受けることについて、ともに吟味し、ともに恵みを分かち合いましょう。

    イエス様が受けられた苦難
イエス様は神のひとり子であり、王の王であり、すべての主であり、三位一体の第2位である神のひとり子です。ですから、イエス様は栄光の中におられる方で、苦難を受ける理由は何一つもない方です。
 イエス様が苦難を受けられたのは、罪人である私たちを罪から贖うために受けられました。聖書は色々な箇所を持ってこのようなことを明らかにしています。「あなたがたのために苦しみを受け」と語り(Tペテロ2:21)、「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」と語ります(Tペテロ2:24)。また「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」と語ります(イザヤ53:5)。
 イエス様は神のひとり子であり、乙女マリヤによってお生まれになり、人のからだを持ってこの世に来られました。イエス様は実に、神の栄光を捨てて、神に罪を犯した私たちの身代わりとなって、罪人が受けるべき苦しみを受けられたのです。
 イエス様は愛する弟子たちの中で一人であるユダに裏切られて、裁きを受けられました。十字架の死刑を宣告され、十字架の上で、血潮を流して死なれました。イエス様の受けられた十字架刑は、世界の歴史の中で一番恥ずかしい死刑です。一番苦しい死刑であり、一番呪われた死刑です(申命記21:23、ガラテヤ3:13)。イエス様は十字架の上で死なれる時に、愛する父なる神から捨てられる痛みを経験しました。(マタイ27:46)。

    今日私たちもキリストの苦難に参加したいです。
  1)聖徒はキリスト者として苦難を受ける覚悟が必要です。
 聖書は「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく」と語ります(Tペテロ4:12)。聖徒が受ける火のような試練、迫害は驚くことではない、正常的なこととして受け入れることであるということです。聖徒は当然この世の人々から迫害を受けるようになります。
 神は人が堕落した後、サタンと戦いを宣言します(創世記3:15)。この時からサタンは神の民を攻撃して、神に挑戦してきます。この世は悪のサタンの支配の中にあり、聖徒はこの世の中で旅人として歩みます(ヨハネ14:30;Tコリント4:3〜4Tヨハネ5:19)。ですから、聖徒がこの世の中で迫害と苦難を受けるのは、決して不思議なことではありません。これは正常なことであり、サタンの迫害と反対がないということ、それこそがおかしいことです。
 聖書は聖徒が受ける試練を「火の試練」と表現します。火は試練と迫害を意味する表現です。ここで、火が意味するのは精錬して、清める火を意味します。聖書は「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります」と語ります(Tペテロ1:7)。ヨブは「神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る」と語ります(ヨブ23:10)。

  2)聖徒はキリストの苦難に加わることを喜ぶ必要があります。
 聖書は「むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです」と語ります(Tペテロ4:13〜14)。
 聖徒がキリスト者として苦難を受けることはキリストのために苦難を受けることです。罪人である私たちが罪の贖いの恵みを受けて、キリストのために苦難を受けることは栄光であり、特権です。誰でも、キリストのために、苦難を受けることが出来るのではありません。聖書は「使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った」と語ります(使徒5:41)。
 聖徒がキリストの苦難にあずかることはキリストの栄光にあずかることです。私たちは主であるキリストの苦難にもともに参加し、キリストの栄光にもともに参加しましょう。

   キリストの苦難に参加する聖徒はどのようにすべきでしょうか。
 キリストの苦難に加わる聖徒は、まず神の恵みを受けた信仰を堅く守ります。迫害があり、艱難があっても宝である信仰を捨てることはできません。信仰を捨てることはすべてを失うことです。信仰を捨てる人はいのちであり、宝であるキリストを捨てることであり、キリストにある永遠の祝福を奪われることです。ですから、私たちは主と共に苦難を受け、どんな迫害を受けても信仰を堅く守りましょう。
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2017年05月03日

優先順位 祈祷  Tテモテ2:1〜8

人生の優先順位を守ることは大切です。私たちは神の恵みを悟り、神のみことばである聖書の教えを吟味して、人生の優先順位を守って歩む人になることを願います。

   人生の優先順位 祈祷
 聖書は「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい」と語ります(1)。ここで「まず初めに」と言うことばは、「時間的優先」よりは、「大切さの優先」を強調することばだと思われます。
 私たちは聖書の色々な箇所から「祈祷の大切さ」を強調して教えているみことばに出会います。使徒たちは「私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします」と語ります(6:4)。このみことばをよく吟味してみると、使徒たちは救済することより「祈りとみことばの奉仕」をもっと大切にしていることがわかります。さらに「祈ること」を「みことばの奉仕」より前面に出して語るのを見ることが出来ます。
 パウロは「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい」と語ります(エペソ6:18)。パウロはこのように目を覚まして絶えず祈ることを大切にして、強調します。
 
イエス様は祈らないと試みに落ちることを認めて、弟子たちに「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです」と語ります(マタイ26:41)。祈りはすべてを成功させるカギになります。私たちは祈ることの大切さを悟り、人性の優先順位の第一番に置いて、祈りに励み、正しく祈ることに力を注ぎたいのです。

    私たちは祈祷についての誤解を正す必要があります。
祈祷について考えるときに、私たちの中には神が祈りについて思うように高く評価しない間違えがあるのではないでしょうか。祈祷についての誤解は何ですか。4つの誤解があると思います。

 1)祈りは大衆の前でするのではありません。
2)祈りは特別な時と場所でするのではありません。
3)祈りは行動に代わるものではありません。
4)祈りは最後の非常手段でも応急手段でもありません。

    祈りについての神の命令
 祈ることを命じる神は祈ることについても詳しく教えてくださいます(Tテモテ2:1〜4,8)。

  切に祈る(願う)のが必要です。
 切に祈ることは必要と関係があることで、祈りは必要、弱さを感じる時に始まります。ですから、祈りは必要を感じる時に嘆願することです。必要を神の応答によって満たし、弱さを神の強さに変え、神の働きをするためにふさわしいものにしてくださるように要請をすることです。

  祈ることです。
 祈祷は原語上で見ると一般的祈祷の意味を示します。神に焦点を合わせて捧げる祈りを意味します(マタイ21:22;ルカ6:12;使徒1:14,12:5;ローマ15:30)。祈祷は神に私の情報を提供して神に教えて、私の実情を理解して、私の要求を満たしてくださるようにする行為ではありません。祈りを通して私たちのすべてを主に示して、私たちの環境と自分を主の観点から見るようにすることです。私たちは神が見るように物事を見るようになると、私たちがどんな混乱と悲しみの中にあっても心の中に平安と喜びを味わうことが出来ます。

  とりなしの祈りを捧げます
 これはとても親しいことを意味します。長い友たちが交わす意思疎通を指します。神にとりなしをする時に、私たちは自分の考えと必要を一番親しい友たちと話すように祈ることです。

  感謝をします。
 感謝はありがたい気持ちを表すことです。不満、不平、焦ることなどは感謝することと離れていることです。このような否定的なことを乗り越える秘訣は感謝することが出来ない時にも、神に感謝を捧げることです。感謝は私たちの祈りの中にいつも溢れることにしたいです(ピリピ4:6〜7)。
posted by ginowankim at 16:40| Comment(0) | 説教