2017年05月05日

キリストの苦難  Tペテロ4:12〜19

今日から一週間、私たちは私たちを罪から救うために苦しみを受けられた、主の苦難を記念する受難週間を迎えます。ですから、受難の主を通して救いの恵みを受けた聖徒である、私たちも主のために苦難を受けることについて、ともに吟味し、ともに恵みを分かち合いましょう。

    イエス様が受けられた苦難
イエス様は神のひとり子であり、王の王であり、すべての主であり、三位一体の第2位である神のひとり子です。ですから、イエス様は栄光の中におられる方で、苦難を受ける理由は何一つもない方です。
 イエス様が苦難を受けられたのは、罪人である私たちを罪から贖うために受けられました。聖書は色々な箇所を持ってこのようなことを明らかにしています。「あなたがたのために苦しみを受け」と語り(Tペテロ2:21)、「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」と語ります(Tペテロ2:24)。また「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」と語ります(イザヤ53:5)。
 イエス様は神のひとり子であり、乙女マリヤによってお生まれになり、人のからだを持ってこの世に来られました。イエス様は実に、神の栄光を捨てて、神に罪を犯した私たちの身代わりとなって、罪人が受けるべき苦しみを受けられたのです。
 イエス様は愛する弟子たちの中で一人であるユダに裏切られて、裁きを受けられました。十字架の死刑を宣告され、十字架の上で、血潮を流して死なれました。イエス様の受けられた十字架刑は、世界の歴史の中で一番恥ずかしい死刑です。一番苦しい死刑であり、一番呪われた死刑です(申命記21:23、ガラテヤ3:13)。イエス様は十字架の上で死なれる時に、愛する父なる神から捨てられる痛みを経験しました。(マタイ27:46)。

    今日私たちもキリストの苦難に参加したいです。
  1)聖徒はキリスト者として苦難を受ける覚悟が必要です。
 聖書は「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく」と語ります(Tペテロ4:12)。聖徒が受ける火のような試練、迫害は驚くことではない、正常的なこととして受け入れることであるということです。聖徒は当然この世の人々から迫害を受けるようになります。
 神は人が堕落した後、サタンと戦いを宣言します(創世記3:15)。この時からサタンは神の民を攻撃して、神に挑戦してきます。この世は悪のサタンの支配の中にあり、聖徒はこの世の中で旅人として歩みます(ヨハネ14:30;Tコリント4:3〜4Tヨハネ5:19)。ですから、聖徒がこの世の中で迫害と苦難を受けるのは、決して不思議なことではありません。これは正常なことであり、サタンの迫害と反対がないということ、それこそがおかしいことです。
 聖書は聖徒が受ける試練を「火の試練」と表現します。火は試練と迫害を意味する表現です。ここで、火が意味するのは精錬して、清める火を意味します。聖書は「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります」と語ります(Tペテロ1:7)。ヨブは「神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る」と語ります(ヨブ23:10)。

  2)聖徒はキリストの苦難に加わることを喜ぶ必要があります。
 聖書は「むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです」と語ります(Tペテロ4:13〜14)。
 聖徒がキリスト者として苦難を受けることはキリストのために苦難を受けることです。罪人である私たちが罪の贖いの恵みを受けて、キリストのために苦難を受けることは栄光であり、特権です。誰でも、キリストのために、苦難を受けることが出来るのではありません。聖書は「使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った」と語ります(使徒5:41)。
 聖徒がキリストの苦難にあずかることはキリストの栄光にあずかることです。私たちは主であるキリストの苦難にもともに参加し、キリストの栄光にもともに参加しましょう。

   キリストの苦難に参加する聖徒はどのようにすべきでしょうか。
 キリストの苦難に加わる聖徒は、まず神の恵みを受けた信仰を堅く守ります。迫害があり、艱難があっても宝である信仰を捨てることはできません。信仰を捨てることはすべてを失うことです。信仰を捨てる人はいのちであり、宝であるキリストを捨てることであり、キリストにある永遠の祝福を奪われることです。ですから、私たちは主と共に苦難を受け、どんな迫害を受けても信仰を堅く守りましょう。
posted by ginowankim at 10:38| Comment(0) | 説教
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